邂逅 -口腔ケア・カルテの余白―2 (風跡より)

平成23年9月24日

Tさんの息子さんと私の娘の大学が同じだった。おまけに、サークルも同じコーラス。さらに入部した動機が二人とも、新入生を勧誘するために振る舞われる夕食を1か月食べさせてもらったことだとわかり、大笑いとなった。

Tさんは奥さんが出してくれたわらび餅をパクリと食べ、お茶も上手くすすって飲む。

平成23年10月1日

声をかけても元気がなく、こちらの指示が通らない。体調が悪いのかと心配したのだが、補聴器が外れていただけだった。
食事と入浴は気に入っていると、デイサービスでの様子を話してくれる。

平成23年10月15日

地図帳を見せると、ラバウルの話をしてくれた。
「最近の人は、ラバウルが何処にあるかも知らん。あれはいかんですなー。」
「介護する方は若いので、ニューギニアって言ったら分かるかもしれませんね。」
「デイサービスでは、つまらんビデオばかり見せられるから、私は寝ています。」
「じゃー、ご覧になりたい映画って、何かありますか」
「硫黄島からの手紙、あれはいいです。」
「あれは泣けますね。」
「若い人たちに、戦争の悲劇を教えんといかんです。戦争を忘れたらいかんですなー」
しっかり話をしてくれるが、前日の皮膚科への通院は記憶していない。

平成23年10月22日

「今日は歌の声が大きいし、腕もよく上がりますよ。」と声をかけると、奥さんが「夕べお酒を2合も飲んだんです。」と言う。
「えっ、2合」「そうなんです。岡山のお酒を送って下さったので、味見程度にと思って一杯テーブルに置いていたら、ちょっと油断したすきに一瓶飲んでしまったんです。」
「甘くてうまかった。」
「それで今日は、元気がいいんですね。」
「そうです。お酒は効きます。」と、まじめな顔で答える。

奥さんの思い出話にも花が咲いた。
「Tさんが若い頃、先生仲間が家に遊びに来たときのことです。皆さんでわいわい飲んでいて、ふと気づくと一人いなくなったんです。トイレにもいない。2階の窓から落ちたかと思って窓を開けてみても見つからない。そしたらなんと、姿をくらました人は、お風呂に入っていたんですよ。」

平成23年10月29日

一曲歌ったところで、Tさんの方からおしゃべりを始めた。
「学校帰りに、古本屋に毎日通っていました。そこに、姉妹がおったんです」
「かわいい子ですか」
奥さんがすかさず「本ではなく、女の子目当てだったんでしょ。」
「そうです。」
「で、声をかけたことあるんですか。」
「いや、一度もありません」
「そして?」
「二人とも嫁に行きました。」

平成23年11月12日

唇の力と肺活量をつけるために、笛とかハーモニカを吹いてみませんかとTさんに提案したら、「ハーモニカをよく吹いていました」と言う。
奥様が、ありますよと、奥からハーモニカを持ってきてくれたが、今のTさんの力では音が出なかった。
「ハーモニカはいつ頃吹いていたんですか。」
「下宿時代、部屋で一人吹いていました。下宿していた大家さんに娘さんがおりました。」
「また思い出の女性ですね。」
「好きでした。」
奥さんは笑いながら「あら、聞いたことないわ、その話」
「素敵な思い出はありますか」
「嫁に行きました」と言って、Tさんは泣き出してしまった。

落ち着いたところで話を聞いてみると、そのお嬢さんに思いを伝えるために、毎日ハーモニカを吹きづけていたということでした。しかしその思いは伝わることなく、言葉を交わすこともなく、どこかへ嫁がれたとのことでした。

平成24年1月21日

「お正月にお餅を食べたがったんですが、私一人の時に詰まらしたら怖いんで、食べさせていないんです。横で私が食べるのもかわいそうなんで、今年はお餅なしです。」と奥さん。
「じゃー、今日食べますか?」と提案すると、奥さんが待ってましたというように、ぜんざいを出してくれた。
食べ終わった後Tさんが神妙な顔をして、
「私ね、北朝鮮に行かんといかんのです。」と言うのだが、私にはその意味が全く理解できなかった。

平成24年1月28日~4月21日

北朝鮮での体験を語ってと欲しいと思い、朝鮮半島の地図を用意して、一緒に記憶を辿ることにした。
ここです、「せいしん」と言いながら指をさしてくれたのは、清津(チョンジン)。
日本人は「せいしん」と呼んでいたらしい。
「せいしんは、軍事施設があったところですね。」
「そうです。」

Tさんは、昭和7年4月20日に清津で生まれ、旧制中学まで清津で暮らしたそうだ。
「私の父親は、キバジュンサだったんです。」
「えっ、キバジュンサ?」
「そうです、馬に乗っている、警察です。」
「あー、騎馬巡査。なるほど。」
「学校では、日本人の巡査の子だとわかったら、いじめられてましたなぁ。
騎馬巡査は、家で馬を飼っているんで、私も馬の世話をしてました。何回か、落馬しましたなー。」

「小学校の担任の先生に<おっちょこ>と呼ばれました。」
「先生があだ名をつけたんですか。」
「私は、おっちょこちょいなところがあったんですなー。」
「だから、そう言われても、それは仕方がないが、卒業式の時も<おっちょこ>と呼ばれたんです。それは、腹が立ちました。」
「卒業証書を渡しながら?」
「そうです。」

「私、中学校の英語の先生を<コレポン>と、呼んでました。」
「コレポン?日本人の先生ですか?」
「日本人の先生ですが、すぐに頭を『これっ』と怒って叩くんです。」
「それで<コレポン>ですか。」
「<コレポン>と呼ぶだけでは、気持ちが収まらんかったんで、テストを白紙で出しました。」

「ウラジオストックからソ連兵が北朝鮮に侵入してきました。そこから逃げるために、父親と別れて、家族は白頭山を経由して、南に向かって歩き、平城(ピョンソン)に行きました。そこで、三か月過ごしましたなー。

私は日本人の女の子にいじめられました。」
「Tさんが、ですか?」
「そうです。そしたら、姉がその子のところへ、訴えにいきました。」
「お姉さん、強いですね。」
「私より、強かったですなぁー。」

「それからさらに、南のカンコウに向かいました。
駅の広場にいたら、父親が私たちを見つけてくれた。」
「よかったですね、家族が再会できて。」
「驚きました。どうなるかと思っていましたけど、本当によかったです。
カンコウはものすごく寒かった。
あー、どじょうを食いました。温たまるんです。」
「カンコウの日本人世話人会の連絡係をやりました。」
「中学生が何をするんです?」
「遊郭に行くんです?」
「えっ、遊郭?」
「カンコウに遊郭が8件ありました。
<すずらん>という遊郭では、食事をしておりましたな。
あぁー<ゆらのすけ>という名前も思い出しました。」
「で、連絡係の仕事の内容は?」
「みんなで遊郭に分かれて隠れていました。そこへ配給があることを伝えに行くんです。
大人が動くと目立つんで、子どもの私が連絡係をやってました。」

「カンコウから、見つからないように山を通って国境を目指したんです。
やっとのことで38度線を越えようとしたとき、北朝鮮の人につかまり『お前たち日本人は、北朝鮮人をいじめたんで、ここで農作業をしないと通さんぞ』と言われた。ダメかと思ったんですが、ヤンバーに救われた。」
「ヤンバーって?」
「ヤンバーというのは、男の老人で髪の長い人のことです。」
「ヤンバーが『同じ人間としてこの人たちは国境線を超えようとしているんじゃないか、逃がしてやれー』と言ってくれたんです。朝鮮は、年寄りの言うことをきくんですなぁー。
若いもんたちは、逃がしてくれました。」

息の詰まるような話が続く。

Tさんは再び「ヤンバーが『同じ人間としてこの人たちは国境線を超えようとしているんじゃないか、逃がしてやれー』と言ってくれたんです。」と声を震わせてた。
「私はヤンバーにお礼を言いたい。お礼を言わんといかんのです。一緒に北朝鮮に行ってください。」
しばらく私には返す言葉がなかった。
「ヤンバーに出会えてなかったら、私たちも今こうして話をすることもなかったですね。」
「縁ですなー。」

「国境線を超えると、アメリカ軍がジープでソウルへ運んでくれた。」
「アメリカ軍が・・・」
「敵国だと思っていましたが、助けてくれました。
そして、鉄道に乗ってプサンに行きました。プサンで新しい2千円をもらって、それを足に巻いて船に乗り日本へ帰りました。着いたのは、博多でした。四国に向かう途中、汽車の窓から広島を見ました。広島は本当に大変なことになっていました。今でも、臭いを覚えています。」

平成24年5月26日

口腔ケアの後「トラジ」を一緒に歌いましょうと、Tさんが誘ってくれる。
歌ったあと、念願の志々島に行くことができ、大変楽しかったと話してくれる。
島で食べていた茶粥についても思い出を語ってくれる。高知県で作られる碁石茶というお茶で焚くそうで、島の水道には少し塩気があり、それが絶妙な味に仕上がるそうだ。
島は貧しかったが、人が来たら茶粥でも食べていかんなと、振る舞うそうだった。
何人来ても、お茶を増やすので大丈夫なんですよと奥さんが話してくれた。

 

 

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