「あいうべ」体操で鍛え直そう
NIKKEI STYLE 10月7日(金)7時47分配信
「舌は何をするところ?」と聞かれたら、何と答えるだろう。味を感じるだけかと思いきや、食べたものをかむのを助けたり、のみ込んだりするときに大活躍している。この働きが鈍ると、食べることもままならなくなる。さらに呼吸をする上でも、大事な役割を担っているという。健康な生活のカギを握るのは「舌の筋力」だ。
舌の働きでまず思いつくのは、食べ物の味を感じる味覚だ。「滑舌」「舌が回る」といった言葉から連想されるように、声を発するときも働く。
自覚しにくいが、舌は「食べる」ときにも重要な働きをしている。「かむ、のみ込むといった動作は、舌なしではできない」と日本歯科大学口腔(こうくう)リハビリテーション多摩クリニック(東京都小金井市)の菊谷武院長。
かむのは歯の機能だと思うかもしれない。だが、ほおばった食べ物をかみやすいように歯の上に運ぶのは舌の役割。のみ込むときにも、舌が食べ物を塊にまとめ、喉に押し込んでいる。
厚生労働省などが推進し、満80歳で自分の歯を20本以上歯を残そうという「8020運動」の成果で、高齢者の残存歯数は大幅に増加している。ところが「歯がたくさん残っているのに食べる機能が落ちてしまう人が少なくない。舌の重要性に注目が集まってきた」と菊谷院長は説明する。
舌は筋肉でできた組織だ。筋力は加齢とともに衰える。足や腰の筋力が落ちると歩行が困難になるように、舌の筋力が低下すれば、うまく食べられなくなるという。
「食べこぼしや、誤嚥(ごえん)でむせることが増えてきたら、舌の筋力低下のサイン」(菊谷院長)。年齢相応の衰えは誰にでも起きるが、できるだけ筋力を保ち衰えを抑えることが自立した生活の維持に直結する。
舌の筋力は呼吸にも大きな影響を与えるとの指摘もある。みらいクリニック(福岡市)の今井一彰院長は「舌の筋力が落ちると、口腔内で舌の位置が下がり、口呼吸になってしまう。これが感染症やアレルギーなど様々な病気を招く」と話す。
舌は本来、口腔の上面にペタッとくっつく位置にあるという。この状態なら口はしっかり閉じられ、呼吸は鼻を通じて行われる。鼻腔(びくう)内には、空気中のゴミを取り除く鼻毛や、温度・湿度を調節する副鼻腔と呼ぶ空洞があり、外気を調整して体内へ取り入れられる。
一方、口にはこういった機能がない。そのため口で呼吸する習慣がある人は、のどや気管が調整されない外気にさらされ、粘膜を傷めたり、ウイルスなどの侵入が起きたりしやすい。さらに、粘膜上で炎症が慢性化して免疫のバランスが崩れ、アレルギーなどが起きやすくなるという。
「人間は本来、鼻で呼吸するようにできている。口で呼吸するのは、鼻でものを食べるのと同じぐらい、おかしな体の使い方といえる」と今井院長。特に重要なのが、睡眠中の呼吸だという。朝、目が覚めた時に口の中が渇いていたり、のどがひりひりする人は、寝ている間に口呼吸になっている可能性が高い。
では、舌の筋力を鍛えるにはどうすればいいのだろうか。今井院長は「あいうべ体操」という運動を考え、普及に努める。まず「あ」「い」「う」と発声するときの口の形をとり、最後に「べー」と舌を突き出す。この動きを毎日30回ほど繰り返す。顔や首がポカポカ温かくなるぐらい、大胆に動かすのがコツだ。
「個人差はあるが、長くても2、3カ月続ければ、ほとんどの人で舌の位置が改善され、鼻呼吸に戻る」と今井院長。クリニックで患者に伝えたところ、花粉症やアトピーなどの症状が改善する人も多いという。この体操を取り入れた小学校では、冬のインフルエンザの発症者が例年より大幅に減ったという声も聞かれるという。
日常生活での注意も大事だ。菊谷院長は「家から出て人と話し、会食するなど、生活の中で舌を使う機会を減らさないように」とアドバイスする。特にリタイア後の世代は、自宅にこもりっきりになりやすい。「外に出ておしゃべりし、舌を鍛える」と意識しよう。
なお、50~60代で、食べこぼしなどが急に目立ち始めた場合は、パーキンソン病やALS(筋萎縮性側索硬化症)といった病気のことも考えられる。運動神経の働きが落ち、舌の機能が急速に衰えている可能性もある。そんな場合は神経内科を受診しよう。
◇ ◇
舌の筋力は、全身の筋力とも関連している。2000人以上の高齢者の体力を調べた厚生労働省の調査によると、脚力や握力が弱い人は舌の力も弱かったという。「舌は筋肉。全身の筋肉と一緒で、使わなければ衰える」(菊谷院長)。舌の筋力低下でかみ砕く力が落ちると、肉などのタンパク質が豊富な食べ物を食べにくくなる。タンパク質は筋肉の原料。不足するとますます筋力が落ちるという悪循環になる。
「機能が落ちきってしまうと、回復は難しくなる。余力があるうちから、舌の筋力維持を心掛けたい」と菊谷院長。もちろん、歯のケアも、かみ砕く力を保つためには欠かせない。
(ライター 北村 昌陽)
[日経プラスワン2016年10月1日付]