師匠:君のナイチンゲールの論文の「真理」て、一言で言うとどうなるの?!
弟子:4年かかって、200枚で書いたことをですか?
師匠:そうです。
弟子:・・・・<いつもながら、いきなり大きくきたー>
Oneですから・・・
「私・人間」は「神」、師匠の言葉でしたら「いのちの働き」の場の中にあり
「神」「いのちの働き」は、「私・人間」の中で働くってこと・・・
師匠:突然ですがねー
弟子:結構、いつも突然ですが・・・・
師匠:あらたうと 青葉若葉の 日の光
これもナイチンゲールだよね
弟子:えっ! 芭蕉ですが ナイチンゲールと何か・・・ <唐突すぎて・・・・>
<青葉若葉>というのは、若葉が夏の日を浴び、成長して青葉に変わるころ・・・
梅雨の前の話ですね。
師匠:そうだよね。
では、「日の光」は?
弟子:太陽の光だと
師匠:そう太陽の光、「生命の源」ですね。「いのちの働き」を表しているんだろうね。 じゃぁ、「青葉若葉の」の「の」は、なんですかねー
弟子:・・・・・・「の」は「の」・・・助詞・・・所有の・・・うぅ・・・
師匠:八木誠一さんは、青葉若葉の 日の光 と言うとき、「の」は
① 青葉若葉がその営みとして、日の光を照り返す
② 青葉若葉として表れている日の光・・・日光が青葉若葉として現れている
この①②の、両方の意味として読めると言っているね。
つまり、①の 青葉若葉が日の光を照り返している「光」、
そして、その光は ②として
「生命の源」「いのちの働き」であり、言い換えれば「神のはたらき」を
現していると感じているんだね。
だから「あらとうと」=「あら尊と」
弟子:句全体は、師匠のおっしゃる
「いのちの営みの いのちの働き」のようですが・・・
師匠:そうだね
青葉若葉の営みは、<いのちの営み>
日の光は、<いのちの働き>
輝く青葉若葉の「輝き」= 太陽が青葉若葉を通して「輝く」
つまり、青葉若葉の「輝き」と、太陽の「輝く」は、同じ働き。
言い換えれば、八木誠一言語の「作用的一」だね。
弟子:はぁー ちょっと、ナイチンゲールと芭蕉の共通点が見えてきました。
師匠:風景としての「輝く青葉若葉」という客観的事実が、
そのまま、人間の内面性の表現でもあると言うことだね。
この句に表現されている経験は、
「私がいて、その私が青葉若葉が反射する光を見たからきれいだと感じた」と
いうような観念的世界の経験ではなく
身体の直接的感覚、言語で世界を分節して捉える以前の感覚。
いのちの働きとしての光と世界が「はたらきとして一」という自覚の表現、
八木誠一言語の「直接経験」の表現として読めるね。
弟子:「はたらきとして一」、すなわち、ナイチンゲールのOneか、なるほど。
「青葉若葉の営み」 を W
「 日の光の働き」 を R
で、記号化すれば
青葉若葉の 日の光
青葉若葉は,輝く青葉若葉であり、W in R
日の光は青葉若葉として輝き R in W
青葉若葉の営みが、光のはたらきを 示現 しているのですね。
師匠:ナイチンゲールは、言葉によって対象化されたところからOneを
語っているのではなく、
言葉以前の感覚を言葉にして語っているんだと思うね。
弟子:ナイチンゲールの「直接経験」の表現として捉えなければ、
捉え損なってしまうわけですね。
「直接経験」の自覚が決定的問題ですね。
しかし、それは難しいですね。
ナイチンゲールはその感覚を、コモンセンスと言いました。
「統合感覚経験」と言ってもいいのでしょうが ・・・
わからないなー 難しい・・・
師匠:本当は、簡単なことなんだが、言葉が難しくするんだねー。
弟子: 光が青葉若葉を生きている
「青葉若葉の営み の 日の光」 W in R
「日の光 の 青葉若葉の営み」 R in W
人間の生きる経験としてなら
「人間のいのちの営み」を M
「いのちの働き」を G
「人間のいのちの営み の いのちの働き」M in G
「いのちの働き の 人間のいのちの営み」 G in M
いのちの働きが私を生きている
病でそれを実感しました!