気仙沼の歯科医/住民への気遣い、常に
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気仙沼市では、市民に親しまれた歯科医の2人が東日本大震災で亡くなり、1人が今も行方不明となっている。
<地元で半世紀以上>
JR南気仙沼駅前にあった畠山歯科医院の畠山赳夫さん=当時(83)=は地震後、車で高台に向かう途中に津波に襲われたとみられる。
東京で歯科医をした後、地元に戻り半世紀以上にわたって歯科診療に携わった。気仙沼・本吉地方の歯科医でつくる気仙沼歯科医師会の会長を務めたこともあった。
ボウリングや謡曲、マージャンと多趣味。旧海軍予科練に入り、飛行技術も身につけた。長女で歯科医の小高京子さん(56)が幼いころ、軽飛行機で気仙沼の上空を飛んだこともあったという。
震災から2日後、京子さんが泥だらけの医院に入ると、2階診療室の机の上に畠山さんの写真が数枚置いてあった。「普段は引き出しにしまっていた。何かを悟って部屋を出る前に見ていたのかもしれないですね」と京子さんは話す。
畠山さんの医院の近くで、謡曲仲間だった松谷歯科医院の松谷松子さん=不明当時(86)=は今も行方が分からない。同市水梨小の学校歯科医を30年以上続け、患者に優しく接した。夫の富彦さん(86)は「元気な限りは続けると、よく話していた」と振り返る。
子どもはなく、2人の時間が長かった。「穏やかな性格で夫婦げんかなんて一度もしたことがなかった。早く帰ってきてほしい」。富彦さんは妻の帰りを待ち続ける。
<仕事も趣味も全力>
同市最知の国道45号沿いにあった、きじま歯科の木島研さん=当時(45)=も命を落とした。
市内で診療所を開業していた父三夫さん(78)の三男で6人きょうだい。三夫さんは「研究熱心。仕事も趣味も全力で打ち込んだ」と語る。
「口の中をきれいにすることは、全身の健康につながるんですよ」とよく話していた。患者の体調も気遣う歯科医だった。
週末は仙台市で開業する妻の歯科医院を手伝った。「往復のたびに栗原市の直売所でイチゴを買って、(妻と自分たち)両方の家に届けていた」と母の礼子さん(78)。記念日には両親へプレゼントを欠かさなかった。
研さんは震災から5日後に遺体で見つかった。この日は礼子さんの77回目の誕生日。「傷はなく、きれいな顔だった。それが最期の親孝行だったんですね」。礼子さんは静かにつぶやいた。(田柳暁)2012年07月01日日曜日
昨年本田が伺った地域です。
<訪問看護ステーションあした>の歯科衛生士さん、現在一人で奮闘しています。
5月の大雨ではステーションが被災したそうです。
歯ブラシが汚水につかり、オートクレーブは故障したそうで・・・
本当になんと言ったらいいのか・・・・
現在も毎月サポートに通っている歯科衛生士さんがいらっしゃいます。
倉敷、加古川から車で通っているのですが、本当に頭が下がります。
世の中って、だまって黙々と、必要なことを行う人によってもっているのだと思います。