私が修士論文で書いた、ナイチンゲールの捉えた看護を担う人間のあり方は、
ナイチンゲールの宗教哲学から理解したものです。
木村敏著『臨床哲学講義』は、ナイチンゲール看護婦といわれる人間のあり方を理解する
ヒントになることを10月3日にお伝えしました。
さて、今日はナイチンゲールが『看護覚え書』で、看護は何事も<コモンセンス>を使うと述べている、その<コモンセンス>について書きたいと思います。
一般的に、<コモンセンス>は、「常識」と訳されることが多いようです。
しかし、当時の常識的な看護のまずさに対して書かれた本が、読者の常識を頼りにしているとは考えにくいですよね。
ナイチンゲールの語る<コモンセンス>を理解する手掛かりもまた、
木村敏著『臨床哲学講義』にあります。共通感覚とその病理(p50~p54)です。
ここで木村先生が、共通感覚と言っていることが、ナイチンゲールのコモンセンスではないかと思われます。
アリストテレスの共通感覚に言及して、もともと「世界と実践的な関係の感覚」という意味があったからのことです。だから、「常識」というのは、一般に解されるような「だれでも知っている基本的な知識」という知的な意味では全くありません。つまり「こころ」の機能に属するものではないのです。そうではなく、それはむしろ<こころ>に属する基本的な感覚です。
<注>「こころ」は、一般的な意味。知覚し認識する脳で制御される感情、意識。
<こころ>は、個としての人間を超えた、<生命>そのもの・生かす働きとしての
<いのち>そのものからが、個人の身体に送りこんでいる働き。
無意識・本能・自然。
アリストテレスは、すべての個別感覚に共通して、それらを根底から統合している「共通感覚」の働きについて論じています。
例えば上の写真を見て下さい。白い部分が写真全体をおかしくしている。
このようなことがわかる感覚が、コモンセンスだと思います。
また、音楽もコモンセンスの感覚だと思います。
ピアノコンサートで、聞いたことのない音楽でも、鍵盤のミスタッチはわかります。
何故か・・・コモンセンスは、本来性(自然の本性)の感覚ですから、不自然さがわかるのです。
この全体の、本来性がわかる感覚とでも言ったらいいのでしょうか?
視覚・聴覚などのレベルとは違った、しかし、すべての知覚を含み次元を異にする感覚です。
ケアにおいても、患者さんに出会った瞬間
おかしい・本来じゃない・……この状況が 即 ケアの要請 と感じられる感覚
それがナイチンゲールの語る、コモンセンスではないでしょうか?!
また、ケアができたということがわかるのもコモンセンス、状況は常に変化し
ケアは要請され ケアし・・・・このとどまることのない・終わることのない
<いのちの営みの感覚>が、コモンセンス。
木村先生おっしゃる<生命>と「生命」との関係が良い人に働く感覚が、共通感覚(コモンセンス)だと思います。
ケアが成り立っている状態ですね。
良かった、癒される・美しい……これがわかるのは、コモンセンス!
コモンセンスが常識になれば、言うことなし!!
『看護覚え書』より
患者を冷やさない程度の室温の確保も必要だということである。
ならない。
ほんの些細なことひとつでコモンセンスの無さが露呈されてしまう仕事は、他に類がない
存在するのである。