放送大学大学院に於いて、修士論文『ナイチンゲールにおける看護思想の基礎的視座』の
指導をして下さったのは四国学院大学の八木洋一先生でした。
八木洋一先生の先生は、八木誠一先生です。
㊟お二人は親族ではありません。
大変うれしいことに、八木誠一先生のお話しを、善通寺で伺える機会が訪れました。
第4回「場所論研究会21」の夏季セミナーに於いて、講演されます。
2014年8月9日(土) 10日(日)10:00~ 善通寺市民会館
★あらためて後日、ご案内します。
八木誠一先生と言っても、知らない方が多いと思いますので、ちょっと紹介します。
<ウキぺディアより>
八木誠一(やぎ せいいち、1932年2月 – )は、日本の神学者、東京工業大学名誉教授。
横浜市生まれ。実家は無教会系のクリスチャンホーム。
1955年東京大学教養学部ドイツ科卒、62年同大学院西洋古典学専攻博士課程単位取得満期退学。ゲッティンゲン大学で学ぶ。1967年「新約思想の成立」で九州大学文学博士。60年関東学院大学専任講師、64年助教授、東京工業大学助教授、75年教授、88年桐蔭横浜大学教授、2000年客員教授、00-02年ハンブルク大学客員教授。ベルン大学客員教授、名誉神学博士。日本基督教学会理事長、東西宗教交流学会会長。
関東学院大学において、新約聖書への批判的言辞は研究にとどめ授業では教授しないことを求められて学問の自由の立場から同大を辞めたことでも知られる(八木誠一『宗教とは何か―現代思想から宗教へ』法蔵館,1998,p.267.)。
<八木誠一公式サイトより>
キリスト教界保守派からは伝統的信仰と秩序を破壊するやくざ者と見做されているらしいので
~渡世人風自己紹介~
手前、生国と発しまするは関東にござんす。関東と申しやしても広うござんす。わが日の本は島国よ、されば港の数多かれど、この横浜に勝るあらめや、その横 浜に生をうけ、いささか学に志し、長え草鞋をはきやして、議論の修羅場の数も踏み、四方諸国の親分衆に、仁義も切ってはみやしたが、正統じゃねえと嫌われ て、盃もらえぬはぐれ者、はまるところがないままに、流れ流れる一人旅、白髪頭となり果てて、生まれ故郷に舞い戻り、いい年こいて横浜の、まだ大学に勤め る身、姓は八木、名は誠一と申しやす、親分もいなきゃあ子分もいねえ、一匹狼はけちな野郎にござんす。しかしそれより何よりも、一生かけて手に入れた、懐 に抱くこの宝、独り占めでは勿体ない、誰かに渡して死にてえと、走って吠えて来やしたが、宝と認める人もなく、奪ってくれる腕もなく、ざまあ見ろいと笑わ れて、やがて枯れ野に行き倒れ。覚悟を決めるその前に、まだ断ち切れぬこの未練、ネットに名乗りあげやした。
~われらいま何をなすべきか~
人間(身体-人格)はこの地球上に住んで、働いて必要なものを作り、それを互いに分かち合う共同体的存在、一言でいえばコミュニカント(コミュニケートする者)である。要するにあらゆるレベルでコミュニケートする身体だ。実際、幸福とは妨げられぬコミュニケ-ションの場にあるではないか。健康も、内外のコミュニケーションがうまくいっているからだのことだ。
このような人間存在に超越的根拠があることを自覚し、人間性を肯定し、個の死を受容しつつ人類の存続(ここに家族の役割がある)を意志し、人類的共同体の形成を願うのが宗教心である。我々の問題は、いかにして我々がこのような「本心」に立ち帰るか、その道を、宗教の伝統に学びつつ、改めて明らかにすることだ。
自由な与え合いが社会生活のなかで交換として制度化され、さらに貨幣経済が成立するとき、所有権、契約、違反への罰など(つまり法律)が社会的現実となる。貨幣そのものが価値とみなされ、富が求められる。以上は歴史の示すところだ。
これは単なる自我達の社会的現実(秩序)の世界だが、この世界は人間が自我で有る限り、むろん否定されうるものではない。しかし、このような社会的現実(言語化された世界、仮想現実としての人為的秩序)の根本に統合化(根源的コミュニケ-ションの世界)の働きを認めなければ、人間は肉体からすら浮き上がり、影のように実在性を欠いた単なる自我となって、欲と計算に明け暮れ、世界を収奪・破壊し、膨大な富をかかえたまま枯渇するだろう――人類はこの地球上でせっかくここまで宇宙的にみても極めて稀に違いない歩みを進めてきたというのに。