ナイチンゲールの語る「真理/One」

学校が夏休みとなり、少しまとまった時間が取れます。
この時間で、以前から読みたかった本を読みました。
それは久松真一・八木誠一対話『覚の宗教』春秋社 昭和55年

久松真一は、明治22年岐阜県生れ。生家は浄土真宗篤信の農家で、幼年時代より真宗の僧侶になる決意をしていた。しかし、中学高校で科学的知識を学び、「中世的」信仰を棄て、理性の自律に基づく哲学を志した。京都大学で西田幾多郎の指導を受ける。西田の薦めによって妙心寺の池上湘山老師に参禅し、「無相の自己」に目覚め、独自の禅哲学を展開した。昭和21年京都大学教授(仏教学)。

なぜ、久松真一に興味を持ったかというと、ナイチンゲールの宗教思想と近いものを感じたからです。
ナイチンゲールも熱心なクリスチャンであったのですが、科学的思考と反する従来の信仰を受け入れることができなかったのです。そして、東洋哲学にもふれるなどの思索の結果、独自の宗教的自覚に至ったのです。それが、ナイチンゲールの看護の根底にある思想なのです。

久松真一とナイチンゲールの辿った宗教的思索の経緯と、悟りとも言うべき到達した境地が非常に近いのだと感じられます。

ナイチンゲールは、自身の宗教告白と言うべき『真理の探究』の献辞で、次のように語っています。真理とは<One>である。

久松真一は、『覚の宗教』において、本来の在り方として<本当の「一」>を解いています。これは、ナイチンゲールを理解する手掛かりになると感じました。

覚の宗教

『真理の探究』&『覚の宗教』

宗教には、人間を超えたものを「信仰」するという在り方と
そのではなく、超えた働きとの<一>を「自覚」するあり方があります。
「信仰」の代表的な宗教として、<伝統的なキリスト教>や<浄土真宗>が挙げられます。
「自覚」の代表的な宗教として、<禅>や<イエスの宗教>(八木誠一著)が挙げられます。

久松によれば、<自己>と<人間を超えた働き>との間に、間隙のあるキリスト教や浄土真宗は、なお「真の自覚」の立場に立つものではないのです。人間を超えた働きを仰ぎ見る「信仰」の立場から、さらに厳密に<自己>と<人間を超えた者の働き>の関係の「自覚」の立場に至ったのが、久松とナイチンゲールだってのではないかと思います。

久松が主催した学道道場の標語に「FAS」があります。この意味は、次のような主張を表しています。
  形なき自己(Formless self)に目覚め、
  全人類(All mankind)の立場に立ち、
  歴史を越えて歴史を創ろう(Superhistorical history)

久松の「覚の宗教」の立場は、「近代」的な人間観がもたらす問題点を超克すべき
「ポストモダン」の人間の在り方にもつながる提唱だと思います。
ナイチンゲールも、このような宗教思想の実践として、看護の道を歩んだのです。

さて、問題の<一>について、久松は数珠を比喩に語っています。
それについて、次回書く予定です。

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