師匠:お正月はいかがでしたか?
弟子:普段会うことのない従兄やその子供たちに会ました。
子どもたちはみな、成人してそれぞれの道を歩み出しています。
結婚しました、離婚しました、
就職が決まりました、退職しました。
極めつけは、大学を卒業したら、旅人になりまーす。
師匠:旅人ですか。それは大したものです。
仏教にも、聖書にも、人生は旅人という件があります。
弟子:そうですか、しかし、親としては複雑だと思います。
旅行ジャーナリストなら、食べていけるでしょうが・・・・
お正月に出会った旅人は、世界を股に掛けるフリーターですよ。
就職を先延ばしにするモラトリアム・・・・
オーストリアに留学していた甥っ子は、
想像を超える生き方をしている人たちと出会い、
「人間、なんとかなる」と言うことを学んできたとか。
師匠:本当の意味でそう言えるのなら、素晴らしいですよ。
弟子:そうですかねー、しかし、あまり深く考えているようにも思えません。
師匠:<フユウソウ>なのかなー。
弟子:富裕層??? どいつもこいつも、親はヒーヒー言いながら働いていますよ。
師匠:富裕層ではなく、浮遊層と言われる若者たちですよ。
閉塞した社会で生き抜くための、オプショナルな生き方を探し求めている
若者たちと言えると思いますね。
弟子:私たちが子どもの頃は、もっと貧しかったけどねー
師匠:経済や物質的な意味合いではなく、人間が<生きる経験>の問題でしょう。
弟子:いきなり<生きる経験>などと言われても、ちょっと・・・・
師匠:普通の意味で我々の感じている「現実」とは、
言葉による仮構によって見える「現実」です。
弟子:すでに学んだ言語によって世界を意味づけて、
言葉にあてはめて世界を読み取って成り立つ現実の経験。
師匠:八木誠一さんの言葉でいえば、
経験とは、現実を言葉の記号「対象」として「認知」し「意味づける」こと。
それを、脳のフィードバック機能である自我・自我たちがやっている。
自我は、現実を我々に固有な情報処理の仕方(言葉で言い換える)によって
コミュニケーション可能な言語に造型して、社会的ー個人的言語世界を構成
(システム化)し、それを現実そのものとして通用させているんですね。
弟子:通用させているとは、みなすということですか?
師匠:学生、病人と言われると、そのように扱われるし
そのようにふるまうことを求められるでしょう。
そうじゃないと困る面があるんです。社会的な秩序が保てないから。
法や通貨もそれですよ。
つまり、それが言葉で成り立っている、われわれの社会的現実ですよ。
弟子:混沌とした世界を言語を媒介にして理解しているけれど、
それは「ありのままの世界」ではないってことですか。
映画は見ていないのですが、話題のアナ雪の「ありのままの自分」より、
深そうです。
師匠:誠一さんの語る「直接経験」は、
言語世界という社会的に通用する仮構が、仮構であるとして、
感覚的に実感される経験でしょう。
西田幾多郎さんや、上田閑照さんの「純粋経験」もそれに近いと考えられるね。
弟子:「純粋経験」や「直接経験」は、禅のお坊さんが長年の苦行の末に辿りつく
悟りの境地ですよね。
<生きる経験>が、我々凡人には手の届かない話しになってきていませんか?
師匠:そうですかねー
ところで、先日病院に行って面白い光景を目にしました。
弟子:病院で面白いこととは・・・?
師匠:おばあちゃんが、ベビーカーの子どもの相手をしていたんです。
その子供のお母さんは、支払いでもしていたんでしょうね。
かわいい子でねー
すると、だんだん周りに人が集まってきて、その子に声をかけてりするんですね。
知らない人同士なんでしょうが、親しげに話しているんですよ。
それが全員女性です。
男はいませんね!!
弟子:わかります、わかります。
電車に乗ってても、赤ちゃんとかがいたら、思わず声をかけてしまいますね。
師匠:それは、どういうことなんだろうかね。
弟子:どうと言われても・・・・意味なくそうしちゃうとしか言えません。
師匠:それじゃ駄目なんだなー。
それは制度における関係とか、社会的な役割の世界ではないでしょう。 単純に身体が身体に対するものとして現れているんだねー。
赤ちゃんを中心に繰り広げられたその場所は、身体性が開く世界と言えるね。
弟子:身体性ということは、言語現実ではなく、自然本来の<直接経験>??
師匠:母子関係の基本は、言語以前の身体の直接的関係でしょう。
弟子:なるほど・・・
そう言われると、男性が赤ちゃんに声をかけなかった理由がわかるね。
師匠:近現代の人間は、言葉によって語られる世界がすべてだと考えていますね。
つまり、自分の経験は、歴史文化的な世界がすべてだと。
何の<経験>の言い表しかといえば、「いのち」というのが一番いいと思うね。
人間のいのちの営みの経験が、科学や制度の世界に閉じ込められている。
本来はそうではないから、<息苦しい/生き苦しい>。
弟子:言葉以前の世界に住む赤ちゃんと女性の身体は、本来の人間の関係を開いた!
師匠:身体は本来のコミュニケ―ションの働きを働かす媒体なんだね。
身体はそうできているんだね。
弟子:我が家の浮遊青年たちは、
閉塞された社会に従えない身体性が強いってことですかね。
感性がいいのか、根性がないのか私にはわかりませんね。
いずれにしても、アベノミクスで景気がよくなったとしても
救われないでしょうね。
師匠:人間の<いのちの経験の全体>は何かということを
「『場』所論」は、なんとか言い表そうとしているんだね。
弟子:<いのちの経験の全体>は、私たちが感じ考える言語現実世界を
超えると言うこと・・・
師匠:胎児や言葉を獲得する以前の無限の<言語以前の世界>を、
人間は言語で狭少化した世界に住んでいるが、
いつの間にかそれがすべてだと錯覚してしまっている。
その世界観の壁を一度壊して本来の世界を感じることを
<直接経験>が可能にすると言えるはずだ。
それを<言語以前の世界>と区別し<言語以後の世界>と言えば、
<言語以前の世界><言語世界><言語以後の世界>の3曹が、
いのちの営みの全体として経験されることが求められているはずだ。
弟子:<言語世界>とは、養老毅先生が身体性を失った都会人のおかしさを
『唯脳論』『バカの壁』として語った世界ですね。
師匠:身体性と言ってもそれも言葉だから、はっきりさせる必要があるでしょう!
弟子:負け組と言われる、引きこもり、浮遊層の若者とは、
閉塞する社会に抵抗している人たちと呼ぶことができるのではないかと思いますね。
自分たちの生きにくさの意味を、自覚できると素晴らしいですね。
師匠:そうだね。しかし「『場』所論」は、はやらないからな・・・・