『Suggestion for Thought to Searchers after Religion Truth』
『宗教的真理を探究するための示唆』
DEDICATION TO THE ARTIZANS OF ENGLAND.
献呈の辞 イングランドの職工たちへ
I come to you not declare the truth;
私は真理を言明するために来たのではない
I come to ask you (if subjects of moral truth have an interest with you)
私はあなたがたに求めるためにきました。(もし、あなた方が<精神的・心の>真理という主題[問題]に関心を持っているなら)
To join in seeking it with those capabilities with God has given to us.
神(いのちの働き)が私たちに与えてくれたその能力(いのちの感覚・統合感覚)で共に捜し求めることに加わることを。
注)本田:Godや神 という言葉は、意味するところが分かりにくいです。
八木先生曰く:<God><神>は、名詞ではありません。名詞ではなく、動詞です。
何か、実体があると理解したら本質をつかめませら注意が必要す。 本田:挿絵に出てくる、白い衣装を身にまとい、髭の長い男性ではない<笑>
八木先生:働きです。神の働きです。働きとしての神。
本田:実体がないということは分かりますが、神の働きと言われも・・・・ 名詞と同じくらい分かりません。
八木先生:私は、神の働きを<いのちの働き>と、とらえています。
われわれの<いのちの営み>を成り立たせる働きです。
ここは、<God>を<いのちの働き>と訳しましょう。
本田:ナイチンゲールは、キリスト教の常識的な神を否定し、
彼女自身の神概念について語っているので、
<God><神>と言った場合、どちらの意味でのどのようなGodかが
分かりにくいですね。
<いのちの営み>は、自分自身が生きていることですから・・・
私は私が生み出したのではないし、私を生かすはたらきを
<いのちの働き>と言えば、分からないでもありません。
それを感じるcapabilities(能力)は、<いのちの感覚>ですね。
<いのちの感覚>は<統合感覚>と言い換えてもよいということなのですね。
I offer the result of my own endeavors , and what I am able to gather from
the endeavors of others.
私は、私自身の努力の成果と、私が他の人々(歴史上)の努力の成果から
集めることができたものを提供します
The object of our desire is to be Truth.
私たちの願う目的は、「真理」になることです。
All should have their faculties exercised and educated , for the purpose of forming a judgment of what is God`s truth.
すべての人々は、神の真理とは何かが判断できるようになることを目的に、自らの能力を鍛錬・育成するべきである。
注)神の真理とは、私たちの<いのちの営み>の真理と言うことですが、
この<いのちの営み>は、単に私たちの<いのちの営み>としてあるのではなく、
その根拠として<いのちの働き>が感じられるということです。
八木先生は、<いのちの営み>を、<いのちの働きのいのちの営み>と言います。
朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、歯を磨く、排泄する、この当たり前の日常の
自分のいちいちのいのちの営み、これが単に自分の自我によって成り立っているのでは
ないと気づく。
言い換えると、私たちの<いのちの営み>は、私たちの<いのちの営み>を成り立たせる
<いのちの働き>が実現して成り立っているということです。
この全体が、ナイチンゲールが語ろうとしている神の真理だと思います。
では、それを成り立たせているのはないかと言葉にするとき、自我を超えた何かの働き
について、語り始めることになります。しかし、その働きは目に見えるものではなく、
感じるものですから、比喩的に語られることになります。
磁場に働く磁力の譬えて見たり
その発見は、Godとか神とかの言葉になる。A と言っても ん といってもいい・・