師匠:身体、大変だったね。大丈夫なの?
弟子:なんとか。
今回、ベッドで寝ていて、修士論文を書いて良かったーと思えました?
師匠:一体どういうことだね?
弟子:いえ、しみじみ身体は自我の所有物ではないと言うことを実感しました。
それから、
師匠のお言葉「すべては統合化プロセス = コミュニケーション」を味わいました。
師匠:そうかー。
弟子:自我が「私が、生きてる。」と語ることの おかしさもよーくわかります。
「いのちの働きが、私を生かしている。」「いのちの働きが、私を生きている」
こっちが先だろうと!!
そう思えると、じっとうずくまっていることが、いのちに従っている感じがして、
「待つ」ことが以前より楽になっている感じでした。
身体の苦は同じでも。
「心身一如」であるなら、身体の苦も変わったのかな・・・・?
とにかく、病んでいろいろ学ぶことが多かったです。
<現場><「場」所> としての、自身の「病」でした。
師匠:それは、「死」についても言えるんだろうね。
弟子:そうですね。
弟子:オウム事件から、はや、20年なのですね。
師匠:そうだねー。
「宗教と」は、なにかねー?
弟子:・・・・
師匠:真の宗教と言う言い方も変だが、僕はこう考えている。
「宗教」とは、「いのち」ということに答えるものだと思う。
「いのち」とは、
本来の意味での「コミュニケーション作用」、
日本語で言うと「分合作用」、
仏教では「縁起」、
八木誠一先生の「統合化作用」、
それによって、すべてが繋がっている。
すべては統合化プロセスとして成り立っている。