「いかなる・そもそも論」

ところで、ナイチンゲールは、病気について、こう言っています。

すべての病気は、その過程のどの時期をとっても、程度の差こそあれ、その性質は
回復の過程 [ reparative process] であった、必ずしも苦痛をともなうものではない。
つまり病気とは、毒さえたり 衰えたりする過程を癒そうとする自然の努力の現れであり、
それは何週間も何カ月も、ときには何年も以前から気づかれずに始まっていて、このように進んできた以前からの過程の、その時々の結果として現れたのが病気という現象なのである。

この考え、歯科衛生士にはなんと分かりやすいことか!
私たちのために書いて下さったのかと思います。

私の論文では、回復の過程 [ reparative process] 「統合化ブロセス」と再解釈しています。つまり、「統合化ブロセス」として生きる人間にとって、生まれてきた、とということも「統合化ブロセス」であり、病も 老いも 障害も 死さえも生きるということと同じく、前提だということなのだと思います。

呼吸し、食べて排泄する、古いものと新しものが入れ替わる代謝そのものが、回復の過程 [ reparative process] であり、「統合化ブロセス」です。

自然の努力の現れとは、私たちの「統合化ブロセス」としての「いのちの営み」を、
成り立たせている「自然の働き」の現れでしょう。
このような、自分自身が生きることを可能にしている、「自然の働き」を、
八木洋一先生は「いのちの働き」であると常々語っておられます。

私の「いのちの営み」とは、単に自我の私の力ではなということですね。
障害、病気、老いと、自分が思うようにならない身体に直面したときにこそ、、このことが自覚されます。つまり、大前提として「いのちの働き」の自覚です。

しかし、自覚しないときも、私とは、「いのちの働き」「いのちの営み」なのですね。
患者さんも、また、私と同じように
「いのちの働き」「いのちの営み」としてのあなたですね。

「いのちの働き」「いのちの営み」としての私、と、
「いのちの働き」「いのちの営み」としてのあなた、との、
 関係そのものも「いのちの働き」「いのちの営み」と言えるでしょう。

 歯科衛生士が患者さんの疾患に向かうとき、
 単なる私の自我の「いのちの営み」として向かうのか・・・・
「いのちの働き」「いのちの営み」としての私が働くのか・・・

どこがどう異なるのでしょうか?
これは私の自覚の問題ですから、外から観察しても変わらないでしょう。
  <いずれ、脳科学が解明する日がくるかもしれませんが>

例えば歯周疾患でしたら、
「いのちの働き」としての回復の過程 [ reparative process] を、どう捉えるかが問題になります。私は、「いのちの働き」としての白血球のしもべ、ということができます。
白血球がよく働けるように、身体を整え(睡眠・食事・運動)
白血球が戦っている相手(歯周病菌)を歯ブラシを使って除去します。
歯周病菌は、嫌気性菌ですから、歯ブラシで空気を送り込み、援護射撃。
前線の白血球が歯周病菌と戦っている所へ、多くの白血球が流れてきやすいよう、
つまり、血流を促すために、歯ブラシによる歯肉マッサージ、
食事をよく噛むことです。ヨガなど全身の運動や、リンパマッサージも有効です。

<歯科衛生士>とは、<いのち>のしもべとして、 
 回復の過程 [ reparative process]、「統合化ブロセス」という働きを担う者。
「いのちの働き」「いのちの営み」としての「歯科衛生士」でありたいと願っています。
 しかし、簡単にそうはいかず、ただ祈っています。

「いのちの働き」「統合化作用」を、ナイチンゲールは「神の働き」(神様がいてそれが人間の用に働くのではなく、働きが神、統合化作用、自然本来のいのちの働き)と呼んだのでしょう。きっと。

生老病死は、仏のいのちと語る仏教の、「仏のいのち」。ナイチンゲールの神はこれとも近い概念だと思われます。
ナイチンゲールは、形骸化した
一般的なキリスト教会が述べ伝える『神』を否定しています。処女マリアから生まれたとか、墓から甦ったイエス・キリストですね。
そういう意味では、東洋的な神なのでしょうか。

と言っても、仏教のほうにも、現代の私には理解しがたい教えもあります。

これは、仏教かキリスト教かの問題ではなく、
いかなる仏教」か「いかなるキリスト教」かということこそを、問うことです。
つまり、「いかなる」問題と言えそうです。
きっと、「そもそも宗教っ何?」というレベルの議論から始めなければなりません。

ここがわかり合えれば、仏教とかキリスト教でも分かり合えるし、
反対に、すれていれば、仏教同士でも、キリスト同士でも、分かり合えません。
過去の戦争をふり返ると、納得できますね。

保健医療福祉従事者にも、当てはまると思いまねす。

歯科医師、歯科衛生士、看護師、ヘルパー、作業療法士・・・
当然、このメンバーには、患者さん自身も入っています。

私にとっても、分かり合えない歯科衛生士はいくらでもいる。
しかし、「いかなる」「そもそも」を共有できる他職種の仲間に
どれほど救われていることか!

こんな「いかなる」「そもそも」を語り合えるバイブルがナイチンゲールの
『看護覚え書』であり『全集』『書簡集』です。

それは、ナイチンゲール自身が、物事の本質をするどく洞察する、感性と知性を備えた
天才だっからでしょう。

「<仏教?><キリスト教?>そこは問題の本質ではないでしょう。全人類が如何に生きるかという問いに答えるという次元で、宗教を語りましょう!
つまり、人間の「生命」「生活」「人生」を超え支える「いのち」のレベル、
言い換えれば、「いのちの働き」の次元です。

そのような次元の共有が、保健・医療・福祉の垣根をこえた働きを可能にするはずよ!
これは、ヒントです、あとはご自分で考えてください。ごきげんよう。」
そんなナイチンゲールの声が、私には聞こえるのです。

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