国家試験不合格におもう

今日は、歯科衛生士の国家試験合格発表の日であった。

私が非常勤講師として授業をしている学校では、不合格者があったそうだ。
かわいそう・残念という気持ちと、教えた人間として申し訳なさも少し感じた。
自己責任だろうとも思うし、患者となる身としては、当然とも思う。
全員合格だと、試験の意味がない。
しかし、合格したからと言って、本当によい歯科衛生士となるかどうかはわからない。
今日不合格であっても、来年合格すれば、
本当に素晴らしい歯科衛生士になる可能性を秘めた人もいるはずである。
何ごとも、あわてて決めつけてはいけない。(最近のニュースからもそう思う)

様々なことを考えつつ、今日は呑みながらこうしてキーボードをたたいている。

あら、携帯が・・・

珍しい人から電話があった。
昔、歯科衛生士教育協議会の、教員研修会で知り合った歯科衛生士さんだ。

「今日合格発表だったんやね。どうやった?」

「それが、心配していなかった学生が、あかんかったんよ。」

「そう、残念やね。当の学生さんは大丈夫? 貴女も?」

「まあね。」

「辛いけど、歳がいくと、それもまたよしと思えるよ。」

「そうやね。でもまず、学生に誤ったよ。」

「誤ったんだ・・・・」

「まだ、私にできたことがあったんではないかと思うから・・・」

 

ブログの冒頭に書いたような私の気持ちも伝えつつ、久々の長電話をした。

 

もし私が彼女の立場なら、どうしただろうか?
誤るという選択肢はなかったと思う。
慰め、来年に向かって頑張ろうと励ますのが関の山。
不都合なことが起こった時にこそ、その人が顕わになる。
叶わないなー!
人間の器の差を感じますね。

この先生に出会った学生さんは、合格しようが不合格であろうが、
幸せだなーと思います。
今は気付かないかもしれませんが。

 

木の芽

同人誌『風跡』第20号の(1994年)の巻頭言の一部を抜粋します。

 ところで、まったくその資質も才能もないにんげんが ━ぼく自身のことだ━
何を間違えたか、曲り形になりにもものを考えたり、教えたりする仕事に就いてしまって、それを長いこと続けていると、いったいその人の最後の姿は全体としてどうなるのだろうか。所謂生理にもとづく力がすべて確実に弱まるなかで、知性や感性までもがスカスカした軽石になっていく。そんな感覚が確かにある。己事究明どころか、己事究迷(?)の様相を呈してくる。 知性にせよ感性にせよ、よく練られ続けてこそいつまでもみずみずしく、柔軟であり続けられるのであろう。生理が本来辿る最も自然な線にそって、知がうまく知を無化し、それをもとに還すことができるのだろうか。とても気にかかる。そんなとき誰かが心の奥でささやくのがきこえる。

  何度でも はじめからやり直せ
  すべてはお前が欺かないためだ  

 

これを書いた、やぎよういち先生は
「八木誠一さんが言うように、自我は他人だけでなく、
 知らず知らずのうちに自分自身をも欺くから、難しいんだよ。」と、
おっしゃっています。

この、「はじめから」がどこなのかが、問題ですね。
ナイチンゲールは、看護学校の教員と学生にあてた書簡で、

   何度でも はじめからやり直せ
   すべてはお前が欺かないためだ 

これを訴え続けたのではないでしょうか。

ナイチンゲールが、毎日「祈りなさい」という意味は、
「はじめに」を見失うことがないように、
そして、看護はいつも「はじめに」からなされますようにだと感じます。

不都合な結果になった学生さんは、「はじめに」と、近い場所にいるのかもしれません。

 

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