ゲシュタルトクライシス・知覚と運動の人間学

目が覚めるような言葉や文章に出会うことがある。
それが何を言っているのか、難しくてわからなくても
何か、とてつもなく大切なことを語っているということは感じる。

『ゲシュタルトクライシス・知覚と運動の人間学』5,600円
ヴァイツゼッカー著  木村敏・濱中淑彦訳 みすず書房 
この本の冒頭を紹介します。

 生命あるものを研究するには、生命と関わりあわねばならぬ。生命あるものを生命なきものから導き出そうとする試みは可能かもしれぬ。しかしそのような企ては、これまで成功してこなかった。或いはまた、学問においては自分自身の生命を無視しようとする努力も可能かもしれぬ。しかしそのような努力の中には自己欺瞞がかくされている。生命は生命あるものとしてわれわれの眼の前にある。生命はどこかから出てくるのではなくて元来そこにあるものであり、新たに開始されるものではなくてもともと始まっているものである。生命に関するいかなる学問の始まりも、生命それ自体の始まりではない。むしろ学問というものは、問うということの目覚めと共に、生命のまっただなかで始まったものなのである。

 したがって学問が生命から跳び出すありさまは、眠りからの目覚めに似ている。だから、よく行われているように生命のない物質、つまり死せるものを出発点とすること、たとえば有機体の中に見出される科学的元素をいちいち数えあげたりすることを出発点とするのは間違っている。生命あるものは死せるものから出発するのではな。生命なきもの、或いは無生物を、死せるものと同一視することすら、明確さを欠いたことである。なぜなら、そのような同一視は、死せるものが生命あるものから生じるかのごとき感を抱かせるからである。生命それ自身は決して死なない。死ぬのはただ、個々の生きものだけである。個体の死は、生命を区分し、更新する。死ぬということは転化をかのうにするという意味をもっている。死は生の反対ではなくて、生殖および出生に対するものである。出生と死とはあたかも生命の表裏両面といった関係にあるのであって、論理的に互に排除し合う反対命題ではない。生命とは出生と死である Leben ist: Geburt und Tod. 。このような生命がわれわれの真のテーマとなる。

『ゲシュタルトクライシク』

『ゲシュタルトクライシク』

師匠:あなたはどこから生まれたの?

弟子:母からです。

師匠:そうー

弟子:父も関係する・・・かな

師匠:お母さんから生まれる前、あなたはどこにいたの?

弟子:・・・・・

この師匠の問いに対する答えが、この本には書かれているのではないかと思えます。

 

日々思うことこの記事のURL