§第十五段
ある日、左下7番のインレーが外れた。
ショックを受けつつ歯科医院へ行くと、伝達麻酔下での形成印象となった。麻酔の麻痺がさめるまでの時間はとても嫌なものだが、今回は妙案を思いついた。
「これを口腔内麻痺の体験として活かさない手はないぞ!」
在宅訪問口腔衛生指導で出会う脳卒中患者の多くは、歯ブラシを口の中に入れると違和感を訴える。痺れて何ともいえぬ気持ち悪さを感じるという。私として はその現象を把握しているが、本当に理解しているのか心許ない。そこで自分が実際に口腔内麻痺体験を試みれば、少しは患者の気持ちに近づけると考えたの だ。
まずはうがいに朝鮮。これはすでに体験済みだが、口唇に力が入らず、水がとんでもないところへ飛び出していった。次は水の試飲。喉の奥が普段と違う感覚 で無意識には水が流れ込まず、予想以上の大仕事となった。
では、食べるとどうなるのか?頬粘膜や舌をかまないよう恐る恐る下顎を動かすと、味も感じない し、イライラが募る。ついには頬粘膜を噛んでしまい、食欲減退。こんな調子では、大好物が目の前にあっても”食べたい”とは思えないであろう。ちなみに歯 ブラシはというと、麻酔の効いた部位にあたると表現し難いイヤ~な感触なのだ。歯ブラシをコチョコチョ動かそうものなら口輪筋に力を込めて排除したくな り、頬粘膜や舌をマッサージされると「止めろ!」と叫びたくなった。
これは、皆さんもチャンスがあれば体験することをお勧めする。当分チャンスのなさそうな方はゼリー状の表面麻酔剤でどうぞ。口腔内の唾液を拭き取り、球 面で表面麻酔剤を下顎の舌・口唇・歯肉・頬粘膜・口腔前庭すべてにしっかり塗布すれば、伝達麻酔ほどには強力ではないにしても疑似体験は可能である。百聞 は一見に如かず、なのだ。
自慢ではないが、私は「臨床歯科衛生士としての腕は疑問あり」と明言できる。しかし、患者になった経験が豊富なため、治療のつらさを理解・共感することについては誰にも負けないと自負している。でも、体験したことのない辛さは、わかりかねるのが実情だ。
いかに想像力を働かせて患者さんの気持ちを察していくか。この仕事の奥深さはここにある。