精神病理学のお医者さんである木村先生の本は、難しいのですが、惹かれるものがあります。
しかし、『臨床哲学講義』は、一般の人向けにされた6回の連続講義を録音して編集されたものですから、木村さんの本にしては、読みやすいものでした。<笑>
この本の主題は、<生命>と「生命」との関係だと思います。
木村先生は、人間存在の根本的構造を、
<生命>と「生命」の二重構造として捉えています。
<生命>とは、連綿と続くすべての生物を生物たらしめる働きです。
「生命」とは、<生命>によって生み出された形ある存在者ということになります。
「生命」は、<生命>が宿った、生まれ&死んでいく有限な存在者ですが、
40億年「生命」が続いていることを言い換えれば、
<生命>は死なないというか、生も死もないということができます。
精神科の先生が患者さんを治療する場合、この関係を基本に据えて捉えると、
私たちがこころと呼んでいるものも、二重性として捉えることになります。
つまり、<こころ>と「こころ」の関係が成り立ちます。
<こころ>を動かしているのは、自然であり、本能、無意識の領域と関係します。
「こころ」を制御するのは脳であり、「こころ」は「意識」と言い換えることができます。
この<こころ>と「こころ」の関係のひずみが、こころの病と私たちが感じるものです。
動物には、<こころ>と「こころ」の関係などありませんので、
精神疾患って、実に人間的だと思えますね。
患者さんと出会い、患者さんとの対話を通じて、木村先生は心を病むということが
人間にとってどういうことかと考察し続けてこられたのです。
非日常の<いのち>の活動としての祭りと、人間の時間との関係を「祭りの前」「祭りのあと」「祭りの最中」という、三つに分け、そこから「統合失調症」「鬱病」「癲癇(てんかん)」を理解しょうとする精神疾患の考え方は驚きです。
人間の生きる営みを、その全体を現象学的に捉える「人間学」に、時間論の概念を重ねた人間の考察は大変興味深いものでした。
また、現在増えている言われる「鬱」。木村先生は「鬱病」じたいは減少していると感じていらっしゃる。増えているのは、「鬱状態」を主な症状とする、別の病像。この捉え方は、現在一般的な、アメリカ的精神疾患の捉え方では理解できないのですが、この説明も目から鱗。
私たちは、こころの病から、正常な人間の在り方を感じることができます。
その在り方とは、<生命>と「生命」の二重構造を自覚した在り方です。
ところで、私が修士論文で書いた、ナイチンゲールの捉えた看護を担う人間のあり方とは、
木村先生の、<生命>と「生命」の二重構造を自覚した在り方と重なると思われるのです。
修士論文を読んで頂いている皆さんで、その点に興味をもたれた方は、是非、『臨床哲学講座』を読んでみて下さい。
八木洋一先生は、木村先生の語る<生命>を<いのちの働き>、「生命」を「いのちの営み」と、おっしゃっていると思います。
<生命>と呼ぶの<いのちの働き>は、人間の「生命」としての「いのちの営み」になる。
「生命」としての人間の「いのちの営み」(=身体)になることによって(媒介にして)、
<生命>は実現する。
この<生命>と「生命」との関係が良い人に働く感覚が、共通感覚(コモンセンス)だと思いますが、この点は後日に。